尾道出身棋士「本因坊秀策」の紹介
秀策は、9歳の冬に浅野公の薦めにより江戸へ赴き、本因坊家に入り、 本因坊丈和の弟子になりました。11歳で初段の免許を得て翌年帰郷、浅野公より五人扶持を賜り、15歳で4段の免許を得て、名を秀策と改めました。17歳の時には12人扶持ちに増禄され、18歳のとき大阪で 井上幻庵因碩と対局しました。世にいう「 耳赤の妙手」はこのときの一手を指し有名です。20歳で第14世本因坊跡目になり、丈和の娘「花」と結婚しました。21歳で将軍の御前対局である御城碁に初出仕しましたが、このときから12年間御城碁において19連勝で負けることがありませんでした。
ある日秀策に母の訃報が届きます。その報せは、驚きとともにいいようのない悲しみと無常観を与えたといいます。秀策は、追善供養のために精進生活に入り、一切の肉や魚類を絶つ生活を送リました。その年、江戸ではコレラが大流行し、大所帯の本因坊家でも多くの患者が発生しました。秀策は自らの危険もかえりみず看病にあたり、精進による体力の衰えもあったのか、コレラに感染して逝去してしまいます。享年34歳という若さでした。
囲碁史上最強ともいわれた秀策。その卓越した棋力に加え、清々しい生き方と温厚な人柄により、いつまでも人々に愛され語り継がれています。
秀策が受けた教育は、碁の修行を通して、人としての品格も身につける人間形成の学びであり、碁に秀でていただけでなく、書家の竹雪道人について書を学び、師の筆蹟と判別できないほどの上手であったといわれます。書の多くは後世に伝えられていないものの、石谷広策に与えた囲碁十訣や愛用の碁盤に記した「 ※ 慎始克終 視明無惑」の銘、父母に送った手紙等が残っています。
秀策の布石は秀策流と称され、今日の対局においても見ることができます。秀策の残した棋譜は450局以上、秀策の棋譜を並べると段が上がるといわれるほどで、プロ棋士の多くもその手筋に学び、一度は並べたことがあるといわれています。秀策はその棋力と人格により碁聖と呼ばれていますが、これまでの多くの棋士の中で、碁聖と崇められるのは 第四世本因坊道策と秀策の二人だけで、その偉大さがわかります。
秀策は平成16年(2004年) 徳川家康、 第1世本因坊算砂、 第4世本因坊道策とともに、日本棋院の「囲碁の殿堂」入りをしました。
※ 慎始克終
- 視明無惑始めを慎しみ終りに克つ
- 視ること明らかに惑い無し