囲碁の歴史
囲碁の歴史は長く、日本に伝わったのが約1,500年前と推定されている。発生地の中国では、四千年の歴史と言われている。
1.中国において発生
碁の起源、発生は解明されてはいないが、易とのつながりがいわれている。遊技として、編み出されたのではなく、易と同じに公的機能を帯びており、その機能として、戦争の契機を見ていたという説である。
盤上の行為は人民(石)と領土(地)の争奪戦をなぞらい、作戦会議は碁盤を囲んで行われていたにちがいない。しかし、武器、軍略の発展に伴い、碁盤も軍略的機能や用途が薄れていった。こうして、紀元前7世紀ごろから、遊技への道が始まったのである。
遊技としての固有ルールも付加され、現在の碁は、およそ3000年の歴史を持つ。春秋戦国時代にゲームとして誕生した碁は、周辺諸民族に伝わっていく。朝鮮半島への伝播は三韓時代と推測され、日本より約1世紀から2世紀早く碁を知っていたはずである。
2.日本へ伝わる
日本に伝わったのは、朝鮮半島を経由して、3世紀卑弥呼の時代以降と言われ、もっとも可能性が高いのが、4世紀後半で帰化人の渡来がおびただしく、彼らが携えてきた儒教の典籍にまじって1対の遊戯具がはじめて、日本の土を踏んだと想像できる。遊技としての碁は、もともと庶民の楽しみではなく、もっぱら支配者階級、知識人の間で流行を見た。
701年「大宝令」僧尼令には、「凡そ僧尼は、音楽及び博戯をなさば百日苦役す。碁琴は制の限りに在らず」とあり、碁は他の技芸に比べ優遇され、以来日本では僧侶に碁の名手が輩出されることになった。
10世紀初頭には、宮中の碁が隆盛期を迎え、公開対局には必ず引き出物があり、勝者に贈られた。貴族達の私的な対局でも、必ず何がしかのものを賭け、賭碁のエピソードは多い。
鎌倉、室町、戦国時代には、上級武士の間に碁は広まってきたが、質的な変化はなく、琴棋書画の雅技は貴族階級から、そのままの形で武士階級に受け継がれていった。また、知識階級たる僧侶は一貫して碁の担い手であった。
江戸時代以前の碁については、棋譜が皆無に等しく、どのような内容であったか明らかでない。ただ1つ、互先置石制を採っていた事は確からしい。これは、対局星に2個づつ置き合って打ち始める方式で、中国、朝鮮ともにほぼこうした方式であった。
この互先置石制を廃止したのが、日本の碁で、ここから独自の新しい世界が開け、中国、朝鮮を凌駕するきっかけをつかむことになる。その時期は室町末期頃と推測される。
3.遊技から国技へ
渡来後、千年を経て初代本因坊算砂(1559~1623)が誕生した。その業績は、空前絶後のものであり、政治的手腕により碁は遊技から国技に高まった。当時の碁の技量は、すでに中国、朝鮮をしのいでいたのであろう。算砂没後、家元制度が確立し、碁院4家の本因坊、井上、安井、林の中で本因坊家は、たえず筆頭の地位にあった。
囲碁保護政策の根幹は「碁所」で、名人の地位(のちの九段)の者が就位した。碁所は、将軍指南役としての権利を持ち、御城碁は打たず、行事等取り仕切ることができた。御城碁は、年に1回、江戸城の御前試合であり、プロ棋士にとって晴れの舞台であった。
4.江戸時代
ここで、江戸時代において2度の黄金期を見逃せない、1つは17世紀後半、4世本因坊道策の登場であり、碁の技術、思想的には飛躍的なレベルの向上をみた。
第2の繁栄期が、秀策らが活躍した幕末の時代で、彼らの手法、構想は今日でもなお学ぶものが多い。この頃には、豪商、富農の間でも碁が楽しまれるようになり、一流棋士は、各種の碁会に招かれた。僧侶は依然として、碁の担い手であった。
5.明治時代
幕府の瓦解とともに、4家家元は立つ基盤がなく、明治10年頃までは囲碁史の空白期といってよいくらいである。時の第1人者の村瀬秀甫は、明治12年囲碁結社「方円社」を結成。家元中心から近代的な専門家組織が誕生し、後の日本棋院、関西棋院へ受け継がれることになる。
明治時代のアマチュア層の実体は、江戸時代と大きな変動はなく、相変わらず上流の名士が顔をのぞかせ、大衆化はまだ先であった。方円社と旧勢力の本因坊家は並立時代が続くが、碁界大合同の機運が生まれ、大正13年日本棋院が創出された。
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